仙台七夕に寄せて


「仙台七夕まつり」開幕−「復興と鎮魂」願い掲げる3000本の竹飾り(仙台経済新聞)
東日本大震災発生から5カ月、今年の仙台七夕はここ数十年の中でもひときわ意味合いの違う祭りとなることでしょう。

五彩を愛でる街、七夕さんに込める心とは。

「十年ぶりの"七夕祭"涙の出る程懐かしい」――終戦翌年の昭和21年、仙台七夕まつりの再開を報じる新聞にそんな文字が踊った。戦後の混乱のさなか、戦禍がまだ残る一番丁通りに立てられた竹飾りはわずか52本。それも、あり合わせの紙で作られたものであったが、それでも人々はバラックが建ち並び始めた仙台の町を彩る七夕まつりの復活に涙して喜び、敗戦に傷ついた心を癒した。
この写真はそれから8年後、昭和29年に元米軍将校のポンザール氏が撮影した仙台七夕の風景*1。当時のものとしては珍しいカラー写真に、鮮やかな七夕飾りの風に揺れる様子や人々の喧騒が映し出されている。「仙台七夕には雨が付き物」とは今の時代でも皮肉交じりに語られることだが、この年の七夕期間中は晴天続きで、新聞には連日「30年ぶりの好天」「雨のない七夕実現」といった見出しが付けられた。雨対策として初めて作られたビニール製の七夕飾りや、降雨時に素早くしまい込めるようにと考案された滑車付きの飾りも、活躍の場面はなかったようだ。
新聞の記述ではまた、「市内商店街がデフレ風に抗するように万金の豪華さを誇れば、ささやかな農家の軒にも小さな竹飾りが涼風をさそい」ともあり、豪華さを増す市街地の商業七夕と、古来の風習としての家庭七夕が共存していた様子がうかがえる。七夕飾りは元来、短冊には歌や書の上達を、吹き流しには機織りや技芸の向上を、折り鶴には延命長寿を、投網には大漁豊作をと、それぞれに願いが込められていた。特に仙台では「三年一作」とも「十年三作」とも言われた厳しい自然条件による凶作と飢饉に苦しむ農民が、豊作への強い祈りを込めていたことだろう。
戦後まだ間もないこの時代の人々が七夕飾りに込めた願いとは、一刻も早い戦後復興と恒久の平和であったことは想像に難くない。はたして七夕の祈りが天に届いたか、翌昭和30年には国民所得が戦前の最高水準まで回復し、日本は目覚ましい高度経済成長へと突入する。景気を象徴するかのように仙台七夕も年々規模を膨らまし続け、絢爛豪華な商業七夕の代表として毎年200万人を集めるまでに発展していった。
一方で、戦災が遠い記憶となり、飢饉の心配もなくなった現代において、仙台七夕には平和や豊作を祈る祭りとしての色合いが薄れ、商業の祭としての特徴だけが残ったとも揶揄される。しかし、どれだけ華美になろうとも、七夕飾りには幸せを願う人々の心が宿り、平和への祈りを託す心の現れがある。いたずらに商業主義に憂えるのではなく、私たちはそのことを後世に伝えていかなくてはならない。
七夕飾りを揺らす夏の風が止む頃、仙台七夕まつりは3日間の会期を終える。その一週間後は終戦記念日である。

これは4年前に仙台のフリーペーパー「風の時」に寄稿させてもらったエッセイです。奇しくもこの震災が、誰もが忘れかけていた仙台七夕の本来の意味を思い出させてくれるきっかけになりました。ならばこそ、私たちが七夕の伝統を語り継いでいかなくてはなりません。震災の体験とともに。

*1:掲載時は文章とともに写真が貼られていました。