今年を締めくくって。

大船渡に帰ってきました。3カ月ぶりですが、以前来た時と比べてがれきがかなり片付いていました。コンビニや仮設商店街や屋台村ができていて、活気を感じます。仙台から来るバスも3台ほぼ満席だったので、年を越したら飲み屋などはたいそうにぎわうことでしょう。

また何十年も経てば大津波が襲ってきて、すべてを無に返してしまうかもしれない。そんな場所で再び生活を営むということに対して僕は正直否定的な考えでいたのですが、津波で店が崩壊してしまった方がまったく同じ場所で店を再開している様子を見て、同じ港にまた船を浮かべている様子を見て、「また来た時は、そん時はそん時だ」という言葉を聞いて、海と共に生きることを選んでいる人たちの強さを感じ、考えを改めました。力があるとか、頑丈だとか、信念があるとか、そういう強さとは違う、肝がすわっているというような意味です。生きていくことへの真剣さ、と言ったほうがいいかもしれません。そういう、圧倒的な力で押し寄せてきた自然と今日も向き合って自分の人生を真剣に生きている人に対して、理屈を持って考えを改めさせる、などというのはおこがましいと感じました。

理屈では割り切れないのが人間だと思います。最善策が何か見えていても、その通りにできないのが人間だと思います。だとすれば、理屈通りにはいかないことを踏まえない理屈というのは、まさに机上の空論でしかありません。論理か感情かという話でもなくて、そこで何十年も生活を営んできた本人となって、そこで暮らしてきた人に囲まれてなお展開できる理屈でなければ実が伴わない、思い込みによる単なる押し付けです。

3月11日の震災後にいくつかの大きな気付きがありました。その中の一つは、「いつも正しい人はいない。誰もが正しいことも言えば、誤ったことも言う」という、当たり前といえば当たり前のことです。だけど震災後、絶対的に正しいこと、常に正しいことを言う人、を求める人が増えたと感じます。感じただけなのでそうでないかもしれません。でも、私たちが学ぶべきはやっぱり、常に正しい答えなどない、ということだと思います。だから、自分の考えを過信してもいけないし、誰かの考えに心酔しきってもいけない。

誰もが答えのかけらを持っていて、誰かと合わせることで答えが少し見えてきて、だけど答えは常に形を変える。そのぐらいあいまいなものだと思ってかかったほうがいい。そんなことを僕は今年学び、来年それを片手に持ってほかの誰かと対話をしていきたいと思っています。

今年も1年ありがとうございました。来年また会えることを、言葉を交わせることを楽しみにしています。みなさんどうぞよいお年を。