港町の復興


母の日の5月13日がお袋の命日だったので、水沢(奥州市)で墓参りをしたついでに大船渡へ寄って親父と港の様子を見てきました。帰るたびに少しずつ船や建物が増えていて、一歩一歩復興に向かっていることがじわっと伝わってきます。
大船渡で生まれ育ったものの、遊びで釣りをするぐらいで漁業とはあまり縁がなかったんですが、振り返ってみればあらゆる営みが水産業をベースにしていたものだったんだな、というのは今になって強く感じるところ。罪滅ぼしのように、遅ればせながら勉強や取材を進めている昨今です。
TBSラジオで3月まで放送していた「キラキラ」という番組で、スポーツジャーナリストの生島淳さんが地元・気仙沼の漁業の復興の現状を話していたのが非常に興味深く、多くの人に知ってもらいたい話でもあったので、書き起こしてみました。聞き手は小島慶子さん。放送日は3月12日でした。

生島 不動産に関して、普通は銀行融資の担保になりますよね。これがゼロ(査定)です。これは大変厳しい。じゃあ何を見て融資してくれるんですかと質問したら、銀行の担当者の方は「事業に対するビジョン」と言うんです。何年後にどういうふうになって……。
小島 ちゃんと回収できるかどうか。
生島 そうですそうです。そのビジョンを語れる人じゃないと駄目だという話ですね。なおかつ、後継者がいるということ。
小島 ああー。
生島 まさに事業の継続性です。いまの僕ぐらいの年齢、45歳ぐらいだとあと頑張って20年でしょう。何億っていうお金を借りますからね。
小島 負債返しきれないからね。
生島 当代ではね。そうなると、「後継者がいらっしゃるんですか」と言われる。そういう状況だそうです。
小島 ただでさえ、もしかしたらもう自分限りかなと思ってお仕事をなさっていた方も、息子は東京に出てしまったしという方もいらっしゃる中でねえ。
生島 そうなると融資がおりなくて、再建のメドが立たない、というような状況になっているところもある。

さらに、国の予算の付け方にもズレがあったといいます。

生島 国が最初に予算を付けたのは船の修繕だったんです。船を直せばきっと賑わうだろうと。実態は違った。船を直しても、港がなければどこに行くこともできない。遠くの被害のない港へ回っていくだけで、三陸沿岸のところはなかなか復旧が進まない。気仙沼は特にそうなんです。建築制限をかけましたので。岩手県は建築制限がなかったので、大船渡は実はサンマの水揚げが前年比8割。そんなに悪くなかった。そういったところでも差が出ちゃったりしたんですね。それに気付いて、次の補正(予算)では、港湾、そして製氷、加工場をセットでやらないと駄目だということになったんです。
小島 確かに、魚捕ってきたってねえ、ちゃんと氷詰めして、箱詰めしたり、その場で加工しないと売れないよね。
生島 そうです。1軒だけ製氷会社さんが稼働したおかげで鮮魚が出荷できたんです。そういう部分もあったりするので、水産業というのは、あまりにも僕は取材していて面白かった。
小島 『気仙沼に消えた姉を追って』という御本の中でも、本当に「ああ、そうなんだ」と、漁業とか水産関係のお仕事というのはこういうつながりで、こういう全体の仕組みで動いているんだ、というのが初めて分かりました。

もう一つ、港町ならではの、いかにも人間らしい話もあります。

生島 ただ、あの中には書いてませんけど……帰港地を決める際、この港で揚げるという大きな理由の一つが、恋人がいるかどうかだったりすることもあるんです。
小島 (笑) それはなんか昔から変わらないような……。
生島 なんとか丸が入港したっていうと、すぐ電話が掛かってくるらしいですよ。女性から。だから、要は、そういうのも込みの復興なんです。飲み屋とか。これは絶対、テレビとかでは流れない話。
小島 でもその人にとっての暮らしっていうのはさ、好きな人がいたりとか、好きな食べ物があったりとか、お気に入りのお店があったりとかっていうのが、その人にとっての普通の暮らしだよね。
生島 そうです! 「アイヅいっからあそごさ上げっぺ、気仙沼さ行ぐべ」っていうような、本っ当に単純な理由なんです。だから飲み屋の復興は、本当に大切なんです。気仙沼にとっては。

子どもの頃から見慣れた港町の光景に必ず飲み屋があったのは、漁師が飲み屋にお金を落としてくれる、という以上の重要な意味があったわけですね。小島さんがおっしゃるように、船や設備だけでなく、そこにあった人間の営みもセットになって初めて港町の復興なんだなと思いました。


気仙沼に消えた姉を追って

気仙沼に消えた姉を追って